2021年7月1日木曜日

芭蕉

 奈良の仏像がきっかけで

宇陀や伊賀の山間部をぐるぐる走ることが多くなりました。

大和朝廷ができる前からつまり神話の時代から、神武東征に協力した

渡来人(主に同化ユダヤ人)の末裔たちが山の谷あい、盆地にたくさん住んで

今に至ってます。

紀元後何万人かの集団で渡ってきた

ユーラシア大陸の高度な技術や知識を持った秦氏の系統は

日本各地に散らばっていますがとうぜんここにもいます。

服部半蔵、松尾芭蕉もその末裔でしょう。

いまではかわいい忍者キャラクターで世界に売り出してますね。

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騎馬民族のジンギスハーンがユーラシア大陸の東西にまたがる

大帝国を作り出してから世界が一気に動き出したみたいです。


スペイン、ポルトガルが大航海を初めて地球が丸いことがわかり

宝探し、植民地つくりをやりだしました。

大陸内は富、領土の奪い合いで血の海。

後発の国々は海外で植民地を奪い合うしかなくなりました。

その余波は日本にもかなり遅れてやってきて

いつか国内が国盗り合戦の戦国時代になってしまいます。

目まぐるしく変わる敵味方。

当然、今でいえばCIAやKGBのような諜報機関が必須となります。

天下どりの趨勢が決まるころ、織田信長が本能寺の変で討ち死にし

信長に呼ばれて手勢の家臣だけで京に向かっていた家康は

パニックになって自刃するなんて喚いたのを陪臣が諭して

堺から岡崎まで逃げることになる。

同行していた服部半蔵が伊賀、甲賀の忍者衆をまとめて、

世にも恐ろしい落ち武者狩りを脱出した。

戦国の世に次から次に主を取り換え生き延びてきて

関ヶ原の戦いのころには家康に忠実で勇猛果敢な(190cm以上)

武将になっていた藤堂高虎はその大活躍で三重、伊賀あたりの領土をもらう。

危機一髪、命拾いした家康は伊賀甲賀の忍者集団を

江戸幕府に大量採用、あらゆる軍事機密、諜報、裏工作をまかせ

その監督に藤堂家をあたらせる。

藤堂高虎自身が城郭つくりに長け石工もそろっていたと思われるけど

治水、水利土木の天才のような人が藤堂家に働いていた。

西島八兵衛(香川に出向し弘法大師以来の満濃池を再生した)

香川県では今でも大恩人として尊崇されている。

江戸の上水道,地下を通したりサイフォン原理を使う。

戦になったら江戸城の生命線になり、

極めて高度な技術と機密を求められる。

紀伊山地、伊賀、甲賀、奈良近辺の山地は

大和朝廷ができてから幕府が変わっても

8~9割は皇室の近親者の寺領。

守護地頭 誰も手が出せない。ある意味、治外法権の特権集団でもある。

そういう伊賀で生まれた松尾芭蕉の運命は

一茶などのような下下の下国の涼しさはない。

芭蕉が江戸に下ったころは市中、治安維持のための乞食、非人狩りが盛んで

伊賀からもそのための用人が相当数、江戸に召集されていた。

芭蕉は西島八兵衛が請けている神田上水の維持管理事業のための

職と住まいを手配してもらう。

藤堂藩の誰かが芭蕉に付き添って築地の小田原町まで同行し、

そこの世話役へ引き継いでいる。

ーーー以上西島八兵衛の日記より。


深川の庵にうつってからか非人頭の七兵衛が三人、遊びに来て

酒を飲む句があった。

郷里のおさな友達が江戸で治安取り締まりの出稼ぎをしてる。

藤堂家が徳川のCIA,KGBの役割をしてるから

当然、芭蕉の記録も機密事項になり公開されない。

東京都の水道局の上水道の歴史文書は偽書といわれてるらしい。

門人たちの中には芭蕉より上の文人墨客、インテリがいたろう。

それでも芭蕉は俳諧の道を究めることをあきらめない。

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もともと奈良の山間部に住みついてる非農業民、同化ユダヤ人,寺社の神人たちは

皇室から勅許をもらった特権集団だったから元禄の世になっても

尊王、勤皇だったろうと思われる。

たまたま時代の流れで徳川の諜報、偵察、秘密工作の部門を担っているけど

日光東照宮のもみじより松の緑にあこがれる。

仕えていた藤堂の嫡子の死後、一時芭蕉は御所の衛士をやったらしい。

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やがて精進の甲斐あって芭蕉の名声は国中に広がる。

しかし何かの事情で急に深川を引き払う。

そして西行の歌枕を訪ねる旅に出る。

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和歌も俳句も作れない自分はこのかたの評論を読む。

寺田寅彦 俳諧の本質的概論 (aozora.gr.jp)

不易流行:初歩的な修辞学なら ”万物は生々流転する” ヘラクレイトス

”これは俳諧には限らずあらゆるわが国の表現芸術に共通な指導原理であって、芸と学との間に分水嶺ぶんすいれいを画するものである。最も卑近な言葉をもって言い現わせば、恒久なる時空の世界をその具体的なる一断面を捕えて表現せよ、ということである。本体を表現するに現象をもってせよ、潜在的なる容器に顕在的なる物象を盛れというのである。本情といい風情ふぜいというもまた同じことである。これはおそらくひとわたりの教えとしては修辞学の初歩においても説かれうることであろうが、それを実際にわが物として体得するためには芭蕉一代の粉骨の修業を要したのである。”

その通りだと思う。

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野ざらし紀行:富士川の捨て子の句  “猿を聞く人、、、、、、、”

これを読んだとき ”なんで自分ではなく他人にきくの?”という疑問がすぐわいた。

そして出家を決めたとき、足にまとわりつく幼い娘を廊下から蹴落としたという

西行を思い浮かべた。

どこからか禅僧のつぶやき ”詮なきことは詮ずるな” がきこえてくる。

また唐突にアルペンクライマーの山野井さんも

”手足の指を凍傷で失いながら奇蹟的に生還したら

なんどもなんどもインタビューを受ける、自分でも何度か書いた。

もううんざりです。

社会と全く関係ない自分だけの経験、他人にわかるはずない。

しゃべることでどんどんその記憶が薄くなっていく。

誰にも知られなくていいです。”

どこにでもいる庶民の忘れがたい経験、そのほとんどは

誰にも知られることなく忘却の彼方に消えてゆく。

それでいいのか? それでいいのだ。

万物は生々流転してゆく

余りにも大きくなった俳聖の芭蕉がなくなった。

遺体を遠くに運びだす。遺言通り木曽義仲の墓のそばに埋葬。

遠方の弟子はとんできたのに地元の藤堂の弟子は参列しない。

尊王の芭蕉と深くつながれば藩自体が改易になる。

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日中戦争 修水渡河作戦 毒ガス部隊の伍長は小津安二郎。

おそらく先陣で30分ぐらいの戦闘で完了。

南昌攻略後、寺に駆け込み僧侶に頼んで、色紙に無と揮ごうしてもらう。

残兵掃討の行軍中、敵兵や土民の死体の間で

目から血を流したあとのある赤子がケロッとして

何かを手に持って遊んでる。

軍隊の靴が踏んだらひとたまりもない。

兵隊の列はその赤子を境にきれいに分かれてゆく。

遠くに菜の花畑が延々と広がっている。

あれはまるで映画を撮るために用意したシーンのようだったと

小津は後で述懐した。

しかし陣中日記など書いていても

そのほか戦争に関して一切しゃべらない。


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芭蕉もしゃべらない。著作は誤字脱字が多いから書かない。

明治大正の知的エリートたちはそれを見抜いてぼろくそにけなす。

子規や芥川、高橋義孝さんも。

それをバックに芭蕉忍者説の本がバカ売れする。

エタ、非人の差別意識が知識人の中にも生きていた明治大正の時代。

そして現代までも。

netが普及して考古学にDNAが導入されて、同化ユダヤ人という概念が

日本の歴史のなかに定着するまで変わらない。

グローバル金融ユダヤとかハルノートとかの情報開示がゆきわたるまでは

芭蕉は俳聖と忍者のあいだを揺れ動くでしょう。

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自分はJazをたのしむように俳句を楽しもうと思います。

何はともあれリズム。

ポリリズムだったり、アフロビートだったり、4ビートだったり。

そのうえで可能な限り少ない音、信じられないほど落差のある音,

あるかなきかのピアニッシモ。

たまにはにぎやかな大騒ぎでもいいんですけどね。


 







Facebookをあけると古代の遺物のほかに絵画がいやっというほど でてくる。 グネグネのゴッホのほかに ピンボケのモネ、べた塗りのゴーガンその他、、、 保存するのはゴッホだけ、古典の巨匠たちもたまに出てきたらほぞんする。 それでも気になるのがあるとついつい見てしまうのが 湿度0...