2020年7月14日火曜日

明治は遠くなりにけり



         川崎 登戸 水道橋の上から

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永井荷風の  江戸芸術論

、、、、、明治維新以来東西両文明の接触は彼にのみ利多くして我に益なき事さながら硝子玉がらすだまを以て砂金に換へたる野蛮島の交易を見るに異ならず。真に笑ふべきなり

この一章を草せしのち図らず森先生の「旧劇の未来」と題する論文(雑誌『我等われら』四月号所載)を読みぬ。旧劇は最早もはやそのままにてはるにへざれば、全くこれを廃棄するか然らざれば改作するにありといふ。これ余の卑見とは正反対なるを以て余はおおい※懼きく[#「りっしんべん+危」、184-5]疑惑の念をいだけり。余の論旨は旧劇は改作を施さざる限りなほ看るに足るべしといふにあり。何が故ぞ。余は常に歌舞伎座帝国劇場の俳優によりて演ぜらるる旧劇中こと義太夫物ぎだゆうものの演技に至りては、写実の気多き新芸風しばしば義太夫の妙味を損せしむるに比較し、宮戸座みやとざあたりに余命を保つ老優の技を見れば一挙一動よく糸に乗りをりて、決して観客を飽かしめざる事を経験し、余は旧劇なるものは時代と隔離し出来得るかぎり昔のままに演ずれば、能狂言のうきょうげんと並びて決して無価値のものに非らずと信ずるに至りしなり。旧劇はもとより卑俗の見世物みせものたりといへども、昔のまま保存せしむれば、江戸時代の飾人形かざりにんぎょう、羽子板、根付ねづけ、浮世絵なぞと同じく、休みなき吾人日常の近世的煩悶はんもんに対し、一時の慰安となすに足るべし。専制時代に発生せし江戸平民の娯楽芸術は、現代日本の政治的圧迫に堪へざらんとする吾人に対し(少くとも余一個の感情に訴へて)或時は皮肉なる諷刺となり或時は身につまさるる同感を誘起せしめ、また或時は春光しゅんこう洋々たる美麗の別天地に遊ぶのおもいあらしむ。沙翁劇さおうげきを看んとせば英文学の予備知識なからざるべからず。ワグネルを解すべき最上の捷路しょうろは手づからピアノを弾じて音譜おんぷを知る事なるべし。江戸演劇を愛せんと欲せばすべからく三味線をもてあそぶの閑暇と折々は声色こわいろでも使ふ、馬鹿々々しき道楽気どうらくぎなくんばあらざるべし。余は江戸演劇を以ていはゆる新しき意味における「芸術」の圏外に置かん事を希望するものなり。
大正三年稿

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ワグナーに心酔し、裏切られたニーチェでさえも室内楽を作曲し、
”ドクトルファースト”を書いたトーマス・マンたちもダンスを習い楽器を弾いていたブルジョワだった。
ざんねんながら音楽を芸術哲学の最高峰においたショーペンハウエルは
ピアノを弾かなかった、、、とニーチェが言ってたと思う。
三島由紀夫がこれこそ芸術だと絶賛した”磯の松”の内田百閒も
筝曲の宮城道夫と共演するほどの箏の名手だった。

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”馬鹿々々しき道楽気どうらくぎなくんば”、、、”
荷風の恩人、師匠 鴎外はその丸反対。

軍人、医療の官僚トップ、欧米列強諸国の侵略と戦う前線にいる。

幕末から維新、日清日露のたたかいにユダヤの金融資本が
いかに多大な影響力をふるっていたかはでてこない。

と同時に鴎外は
近代日本の文芸、演劇の創造、改造の最前線にいる。

語学に優れ、馬をあやつり運動神経抜群。ニーチェとにてる。

鴎外ファンは漱石と違って権威がすきらしい。

しかし自分の周りが元老など維新の矢玉をくぐってきた人ばかり
ならそりゃ、息を抜く暇はほとんどなかったろうねー。

郷里の江藤新平など佐賀の乱でさらし首だし大隈重信も暗殺未遂で
片足ふっとばしてる。

辛辣な直言、実行をそばで見ている”五重塔”の露伴からそんなことしてるといつか反撃くらうと忠告されたりもする。
熊本の徳富蘇峰なども文芸上の鴎外の仲間だった。
10才も下の三申小泉策太郎を
(漢文の素養があって歴史評伝に優れていた)”吉田松陰”をかいたからと蘇峰はセンセイ呼ばわりした。
世界赤十字の会合で許可をもらって単なる通訳ながら、森鴎外はアジアの日本はもちろん欧州以外の地でも赤十字の活動をすると演説して
西園寺公望欧州公使から絶賛される。

天皇家のもとに五摂家十精華の華族がいて西園寺は十精華の一つ。
岩倉具視などはずーと下の公家だけどいつのまにか成り上がっている。

小泉三申は南伊豆、子浦の出。
新聞記者から大陸の証券所で資産を作り政友会に入り明治以降の最高の文人政治家。
”露伴君”が子浦の三申のところへ遊びに来て、かえり下田まで船で送った
子浦の鍛冶屋の親父さんのうちには露伴のお礼のはがきが残ってた。

三申は大逆事件の堺利彦と軍国主義の田中義一と親友だった。
高橋是清の政界引退の辞を書いたのも小泉三申だった。
西園寺公の伝記を書くため興津の坐漁荘に自由に出入りしたが、
フィクサーとしてのイメージが強いせいか南伊豆の図書館には
三申の岩波の全集本はなかった。

このように近代日本の明治45年間は江戸時代までの日本の伝統習慣を
引きずりながら悪戦苦闘してきてる。

鴎外の顔から刃のような冷徹さがオーラのように出ているのも仕方ない。

荷風が欧州帰朝者の目でいくら泣き叫んでも 明治は国家存亡のサバイバルのために相手にしてる暇はなかったろう。

庶民の絵描き、熊谷守一でさえ自分のことを ”亡国の民 ですわなー”と述懐するほかなかった。切迫してる明治の日本。


すでに着々と陰謀はすすんでいた。

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それにもかかわらず、100年後の現在こうして、
日本の庶民は天皇制も失わず、
自然を畏怖しながら親しみ和み、あらゆるものの霊(たましい)を
気づくこともなしに信じて生きている。

縄文以来なーんもかわってない! 
世界遺産?どーでもいい。

餌に見えるとパクっとくわえてくちゃくちゃして自分に合わなきゃ
ぺっぺっと吐き出す。
いきてる限りその繰り返し、たぶん永遠にね。

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ここんところ雨続きだから うろ覚えの記憶をたどって
文芸や絵画について想像をふくらかしてみました。













めずらしく大西。 棚田の天端、体持っていかれそう。 雲が走って、新緑の葉裏がみんなひっくり返る。 伊豆なら沖は時化。 3時には吹き止みました。 **** 19日曜日、綿引君休み。自分は午前中ならteepeeの天幕上げ手伝える。 ロープワークやブロック、シャックル、Sカン、W南京な...